オリンピック自転車競技 (トラック) 用次世代型自転車

株式会社ブリヂストンおよびブリヂストンサイクル株式会社、センサー、モデル化、シミュレーションを活用した高品質設計を実現


オリンピックの短距離自転車競技 (トラック) 用の自転車は、刃のような外観が特徴です。強度、軽さ、効率性を追求すると同時に、最低重量などの国際基準を満たしている必要があります。1000 分の 1 秒のタイムを競い合うアスリートたちは、1 周 250 メートルのすり鉢状の木製トラックを、時速 70 km 以上のスピードで駆け抜けます。

自転車競技の日本代表チームである日本自転車競技連盟 (JCF) は、わずかな設計変更がパフォーマンスに大きな影響を与えることを認識しています。そこで、彼らは、世界最大のタイヤおよびゴムメーカーである株式会社ブリヂストンと、日本を代表するスポーツ自転車メーカーであるブリヂストンサイクル株式会社の専門家とタッグを組みました。

ブリヂストン製短距離競技用自転車「アンカー」。(画像著作権: 株式会社ブリヂストン)

ブリヂストン製短距離競技用自転車「アンカー」。(画像著作権: 株式会社ブリヂストン)

「両社の強みを融合し、科学の力を結集して最高の自転車を作ることを目指しました」と、株式会社ブリヂストン デジタルエンジニアリング技術推進本部の上席技術主幹、内田和男氏は語ります。

JCF は、ブリヂストンの基礎技術部門とブリヂストンサイクルのレース機材設計部門の合同チームと契約を結び、短距離競技用自転車を開発しました。選手を記録的なタイムで勝利に導くためには、ホイール、フレーム、ハンドルなどのコンポーネントや、機器の操作性や応答性の分野に関する専門知識を結集する必要があります。

長距離レースとは異なり、短距離レースでは、急加速や力強いペダリングが可能な自転車が求められます。その鍵を握るのが自転車のフレームです。フレームの剛性と重量は、極めて競争の激しい自転車競技の世界において重要な要素となっています。フレームがたわみすぎると、ペダリングの効率が下がります。重すぎると選手の負担となり、貴重な時間をロスすることになります。オリンピックに参加する自転車競技チームを持つすべての国が、重量と剛性の理想的なバランスを追求しています。

しかし、どれだけ剛性が高く、軽量で、国際自転車競技連合 (UCI) の最低重量規定である 6.8 kg を満たす自転車であっても、勝利を得られるとは限りません。選手が乗ったときに違和感がないことが必要です。ブリヂストンチームは、その理想的な組み合わせを目指しました。

チームは、MathWorks の技術コンサルティングおよびアドバンスト サポート チームと協力し、モデルベースデザインを用いて自転車競技用トラックでの自転車の動作をシミュレーションしました。この洗練されたデータに基づいた解析により、プロトタイプの開発が加速し、世界を舞台とする最高峰の高速レース向けに先進的な短距離競技用自転車が最適化されました。

競技用自転車の挙動をモデル化

ブリヂストンチームは、個人スプリント、チームスプリント、ケイリンといった短距離競技に重点を置きました。日本発祥の自転車競技であるケイリンは、1940 年代後半に始まった独自のルールをもつトラック競技です。デルニーと呼ばれる先導用の自転車が選手のペースを作り、スピードを上げて数周した後にコースアウトし、最後の数周で選手たちが競い合います。ケイリンは、2000 年に男子、2012 年に女子のオリンピック種目になりました。

ケイリンと同様に、個人スプリントとチームスプリントの選手は、通常、70 km/h を超えるスピードでゴールします。トップクラスのライダーの場合、そのスピードは 80 km/h に迫ります。標準的なトラックの最大角度は 45 度であり、1 年遅れの開催となった 2020 オリンピックのトラックサイクリング会場である静岡県伊豆市の伊豆ベロドロームも同様の構造です。

「(MathWorks の技術コンサルティングやサポートと協力することで) 自分たちだけで取り組んでいたら直面していたであろう多くの困難を回避することができました。」

ブリヂストン製自転車の運動学モデル。(画像著作権: 株式会社ブリヂストン)

ブリヂストン製自転車の運動学モデル。(画像著作権: 株式会社ブリヂストン)

角度のある楕円形のコースを疾走する自転車のモデル化は、日本チームにとって不可欠でした。自転車競技場は高度に制御された環境であるにもかかわらず、エンジニアたちは未知の領域に足を踏み入れていました。「フレーム、ステアリング、およびホイールという移動するオブジェクトの 3 次元的な挙動を正確に捉えることができる計測システムがありませんでした」と内田氏は説明します。

オートバイの動きを測定する市販のシステムは、軽量な屋内トラック用自転車の開発には重すぎるうえに大きすぎました。さらに、オートバイに乗っている感覚は、競技用自転車に乗っている感覚とは大きく異なります。その結果、設計にずれが生じる可能性がありました。

ブリヂストンチームによると、従来の技術には多くの制約もありました。モーション キャプチャーは、極端に狭い範囲しか測定できず、実装するには大がかりな準備が必要でした。ジャイロセンサーを使うと、大きな積分誤差が生じてしまいます。グローバル ポジショニング システム (GPS) 情報は、積分誤差の補正には有効ですが、屋内のトラックではうまく機能しません。

チームは、トラック競技用自転車の挙動を正確にモデル化できる、まったく新しい運動計測システムを開発する必要がありました。自転車の方向を補正するには、正確な加速度、遠心加速度、重力などの複素信号を考慮すると同時に、これらの信号の内訳を明確にし、それぞれの信号を正確に分類する必要があります。

そこでチームが採用したのが、状態推定の代表的なアルゴリズムの 1 つであるカルマンフィルターです。カルマンフィルターは、測定データからノイズをフィルタ処理で除去し、システムの状態を正確に推定します。このアルゴリズムは、自転車がすり鉢状のトラックを走行する場合のような、状態が継続的に変化するリアルタイムシステムに最適です。

カルマンフィルターを使用して自転車の挙動を推定するために、ブリヂストンチームは選手が走行時に気にならない方法で信号データを取得する必要がありました。ピッチ、ロール、ヨーの変化を検出できる小型の慣性計測ユニット (IMU) センサーは、近年目覚ましい進化を遂げていると内田氏は認識していました。そこで、エンジニアは、25 グラムの IMU センサーを導入しました。この小さなセンサーのおかげで、JCF のサイクリストたちは、デバイスが自転車に装着されていることに気づかないまま自転車競技場でプロトタイプのテスト走行を行うことができました。

自転車競技場の形状のモデル。(画像著作権: 株式会社ブリヂストン)

自転車競技場の形状のモデル。(画像著作権: 株式会社ブリヂストン)

また、カルマンフィルターの状態方程式に自転車競技場の形状を組み入れて運動学モデルを構築する必要もありました。まず、Lidar を使用して湾曲したトラックを計測し、3 次元点群を生成しました。自転車競技場の形状の数学的モデルを構築した後は、MATLAB® を使用してそのパラメーターを特定しました。さらに、MATLAB と Simscape™ を使用して自転車の運動をシミュレーションし、システムレベルの性能をテストしました。こうして、チームは短距離競技の運動学モデルを構築しました。

挙動計測システムの準備が整ったことにより、チームはさまざまな自転車のプロトタイプと他社製品の性能比較を行ったと内田氏は語ります。レースの鍵を握る重要なシーンでの自転車の挙動を解析し、それらの分析情報に基づいて設計を調整しました。このモデル化とシミュレーションにより、チームは設計プランを迅速に策定し、不必要なプロトタイプ開発サイクルに時間を費やすことがありませんでした。

「MathWorks のチームは、核心をつくモデル化の提案をしてくれました」と内田氏は語ります。「彼らは、広く使われている技術に関する素晴らしいノウハウを持っています。そのおかげで、私たちは、自分たちだけで取り組んでいたら直面していたであろう多くの困難を回避することができました。」

シミュレーションから実走行へ

内田氏の話では、これまでのプロトタイピングでは、選手からのフィードバックをもとに、デザインの微調整を繰り返していました。しかし、新しい短距離トラック競技用自転車の開発では、チームではモデルベースデザインを積極的に導入しました。システムレベルのシミュレーションを繰り返し行うことで、開発サイクルを大幅に短縮することができました。

内田氏は、「カルマンフィルターを使用して自転車の挙動を解析することにより、鍵を握るレースシナリオを特定することができました」と述べています。その後、複合流体力学によるモデル化や、物理現象を数値化する数学的手法である有限要素法を使用して、自転車の空力と剛性に関する設計面の最終処理を急ピッチで進めました。

そして JCF のアスリートたちは、屋内トラックで新システムのテストを行いました。内田氏は、「アスリートたちには、計測システムを搭載した自転車に乗ってもらうよう頼み、重要なシナリオにおける自転車の挙動をフィードバックしてもらいました」と説明します。

最終段階では、自動車の設計によく使用されるツールを二輪車の製品開発に応用しました。Epic Games が開発した Unreal Engine® によって、自動車や輸送分野をはじめとするさまざまな業界のクリエイターが、シミュレーション結果をリアルタイムで没入感ある映像で可視化しています。この Unreal Engine シミュレーション環境を使用して、チームは Simulink® で設計した運転アルゴリズムを可視化しました。

「リアリティのある (シミュレーション) 映像によって、私たちが作り上げた技術を周りの人たちに本当の意味で理解してもらうことができました。」

Simulink で Unreal Editor を使用した自転車の 3D シミュレーションと可視化。

Simulink で Unreal Editor を使用した自転車の 3D シミュレーションと可視化。

Simulink と Unreal Engine のインターフェイスは、日本チームの短距離競技用自転車のフル開発に新たな光をもたらしました。「リアリティのある映像によって、私たちが作り上げた技術を周りの人たちに本当の意味で理解してもらうことができました。

最終的な短距離競技用自転車の設計は、初期のプロトタイプとは大きく異なるものになりました。より軽量で、空気力学の原理を応用した、十分な剛性を備えた自転車を作ったのです」と内田氏は語ります。

実際の競技での成果は目を見張るものでした。2021 年 5 月、香港で開催された「TISSOT UCI Nations Cup」の男子オムニアムで、ブリヂストンのフレームでレースに臨んだ日本人サイクリストの橋本英也選手が金メダルを獲得しました。同年 8 月、伊豆ベロドロームで開催されたトラック競技オムニアムで梶原悠未選手が銀メダルを獲得し、日本人女性として初めてオリンピックの自転車トラック競技でメダルを獲得しました。

短距離競技用の自転車が究極のテストに合格した今、内田氏のチームでは、開発過程で得られたすべての知識を応用し、新しいロードバイクの製作を計画しています。具体的には、多用途なロード性能を誇り、信頼できるオールラウンダーとして知られるブリヂストンの自転車をさらに進化させることを目指しています。

内田氏は、「空力、剛性、軽量性のバランスを高次元で達成させたオールラウンダーバイクを販売することを計画しています」と語ります。これは、高度なモデル化とシミュレーション技術を用いて性能を最大限に発揮できるように設計された自転車が、より広く普及していくことを意味します。未来のサイクリストは、屋内トラックでのレースでも、屋外の急な坂道の走行でも、都市部の平地走行でも、これまでには想像もつかなかった体験を味わうことになるでしょう。


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